URC

About URC Records

URCレコード概説

~URCは日本のインディーズの原点だった~

 

1960年代末の反戦・社会運動の高揚を背景 に誕生したURCレコードは、奇跡的とも言えるほど綺羅星のごとく才能が集い、幾多の個性 溢れる名盤を世に送り出した。
70年代後半には 実質的な活動を停止したが、独立レーベルの先駆的存在として今なお有形無形の影響を日本の音楽界に及ぼし続けている。
関西を拠点に活動していたフォーク歌手高石友也のオフィスとして、URCレコードの親会社である高石事務所が設立されたのは、1967 年の夏のことである。
場所は大阪市北区兎我野町にある、山安ビルというマンションの1室、6 畳と4畳半と台所という狭いスペースだった。
この小さな会社の社長が秦政明(1930年生まれ)であった。

大学時代歌ごえ運動に没頭していた秦は、卒業した58年、世界各国からクラシックの音楽家を集めて、短期集中的に公演する、という画期的なイヴェント“大阪国際フェスティバル” (第1回は58年4月10日から5月10日まで)を運営する大阪国際フェスティバル協会へ入社する。数年勤務した後に独立、62年には外来タレントの関西公演をとりしきるイヴェント会社 (アートプロモーション)を興す。
高石友也が秦のイヴェントに最初に出たのは、66年10 月10日、日本にフォークソングを定着させようとして、アートプロモーションが主催していた「フォーク・フォーク・フォーク」というコンサートの第2回に、飛び入りで歌った時だった。

高石友也は1941年生まれで北海道の出身。 立教大学をドロップアウト、釜ヶ崎に流れつき、土木作業員や屋台のラーメン屋などのかたわらフォークソングに興味を持ち、アメリカのフォークソングを日本語にして歌ったりしていた。
高石の歌を聞いて衝撃をうけた秦は、飯場暮しの彼を自宅に居候させ、やがてマネージメントを手がけるようになる。

秦と高石の二人三脚による、フォークソング運動の行脚がここにはじまる。
労働組合や学校、反戦集会、労音などあちこちを歌ってまわるのである。早くも66年12月20日には、ビクターからデビュー・シングル「かごの鳥ブルース」も発売される。
これは秦とかねてから付き合いのあった、ビクターの歌謡曲の深井ディレクターが、高石のテープを聞いて興味を持ち、レコード化となったものだった(ビクターと高石事務所との関係は、これよりSFシリーズービクターのフォーク/ロックのレーベルまで続くことになる。
岡林信康や五つの赤い風船などの レコードもここから出た)。

67年4月28日には第1回高石友也リサイタルが毎日ホールでひらかれる。
第1次フォーク・ブームはすでに下火になっていたにもかかわらず、かなりの動員があった。
この時、ゲストで出演したのがフォーク・クルセダーズ、中川五郎、高田恭子などである。
中川五郎は当時大阪寝屋川高校3年生。アメリカのフォークソングにひかれ、自分なりに訳して歌ったりしていた。
67年3月、たまたま行ったベトナム反戦講演会にゲストで来ていた高石友也の歌に、
自分がやりたかったことをやっているというショックをうけ、そのあと高石におどおどと話しかけ、「ぼくもうたを作っている」と言ったことから、次のフォークの会によばれ、以後彼は高石に連れられて、様々な会合を一緒にまわるようになる。
中川はとくにソングライターとして才能を発揮し、「受験生ブルース」「主婦のブルース」「俺はヤマトンチュ」 「殺し屋のブルース」などの名作を生み、これらの歌は高石によって紹介され一般にひろまった。

フォーク・クルセダーズは京都のアマチュア・グループで、当時は、加藤和彦、北山修、 平沼義男の3人組だった。
すでに関西では、「笑 いのフォークル」として人気があり、アート・ プロモーションの「フォーク・フォーク・フォーク」には第1回から出演していた。
67年7月には第1回フォークキャンプが京都でひらかれる。
このイヴェントは 69年までに4回ひらかれ、関西フォークの象徴的ムーヴメントとなる。
高石の労音まわりも軌道にのり、9月にはいよいよ高石事務所を開設する。思いがけないことが起きたのは11月である。

フォークルが解散記念に自主制作したLP『ハ レンチ/ザ・フォーク・クルセダーズ』の中の 1曲、「帰って来たヨッパライ」がたまたまラジオ関西でオンエアされ大反響を呼んだのだ。局には連日リクエストが殺到、この評判は東京にも伝わり、ついには12月、各社争奪戦の末、東芝からシングルとして発売される。これが、我が国初のアンダーグラウンド・レコードとして紹介され、それまでの売上枚数記録を塗り変える爆発的な大ヒットとなったのである。

かくして68年初頭の日本は“アングラ・ブーム”が猛威をふるうことになる。
解散したはずのフォークルだが、思いがけないヒットによって、平沼をのぞく2人に、ドゥーディー・ランブラーズの端田宣彦が加わって再結成され、高石事務所に所属し1年間だけという約束でプロとして活動をはじめる。
高石事務所も多忙となり、東京にも拠点をということで、68年1月には原宿の東京セントラル・アパートの1室に、東京事務所を開設する。
また、 東芝から「帰って来たヨッパライ」を出す際、秦は版権会社としてアート音楽出版も設立、それ以後、高石事務所系アーティストのコピーライトも持つようになる。

12月、「帰って来たヨッパライ」によるアングラ・ブームの流れにのって高石友也の「受験生ブルース」(中川五郎作詞)がビクターから発売され、これも大きなヒットとなり、一躍高石の名も全国に知られるようになった。 1-3月27日と28日には大阪と神戸で“アンダーグランド音楽会”が開かれる。
これは高石事務所主催としては初の大きなイヴェントだった。
ちょうどアングラ・ブームが最高 潮の時で、大盛況となった。

これに飛び入りで歌って大喝采を浴びたのが岡林信康である。
岡林は滋賀県近江八幡の牧師の子として1946 年に生まれた。同志社大学神学部在学中に信仰に疑問を持ちドロップアウト、山谷などで工事 人夫として働いていたが、やがてフォークソングと出会い、高石友也の紹介で人前で歌うようになった。
岡林も高石事務所所属となって5月 から労音まわりをはじめる。
岡林のビクターからのデビュー・シングルに予定されていた「ほんじゃまあおじゃまします」 (「くそくらえ節」)は、過激な歌詞が問題とされ、直前で発売中止となり、替わって「山谷ブルース」が7月に発売された。
このアンダーグランド音楽会には、西岡たかし率いる五つの赤い風船という大阪のグループも参加していた。抜群のハーモニーによる日本語の歌を聞かせるこのグループと高石事務所との付き合いもこの時からはじまったのである。
さらにもう一つこのコンサートに参加していたグループに、東京のジャックスがいる。
ジャックスは、早川義夫、谷野ひとし、水橋春夫、 木田高介の4人組のエレキバンドで、
東京では 数少ない日本語で歌うグループだった。この時のことを早川義夫は「東京のフォークと関西のフォークの違いはまるで中身が違っていました。
東京ではそれまでひとつも見かけなかったものが関西にはあったのです。(でも、やたら会場を笑わすことには首をかしげましたが)」
と述懐している(早川義夫著『ラブ・ゼネレー ション」自由国民社、1972年)。
彼らも68年11月から高石事務所に所属して活動するようにな日本語で歌うことが関西のフォーク・シーンでは主流になりつつあったが、東京では依然として大学生のモダン・フォークのグループによる、PPM、キングストン・トリオ、ブラザー ズ・フォアなどのアメリカン・フォークの英語コピーを中心としたカレッジ・フォークが主体だった。
その多くは、スチューデント・フェス ティバル、ジュニア・ジャンボリー、アップタウン・ジャンボリーなどの学生フォークの団体 に加盟し活動していた。
すでに、第1次フォーク・ブームを担ったブロード・サイド・フォー、モダン・フォーク・カルテットの2大巨頭 は去り、代わって、森山良子、フロッギーズ、キャッスル&ゲイツ、ニュー・フロンティアズ、モダン・フォーク・フェローズなどが中心となっていた。
ほとんどのグループが英語による コピーに明け暮れていたが、 わずかに、小室等率いる六文銭に日本語への志向があった。

東京で、本格的に日本語で歌うことを意識して活動していたのは、学生フォークの連中ではなく、真崎義博、南正人、高田渡などがいた「アゴラ」という集団である。
第1回のコンサートを68年5 月2日に開いている。6月には、高田の歌う「自衛隊に入ろう」がテレビで流され反響を呼んだ。

こうした東京勢と関西勢がはじめて交流を持ったのが68年8月に京都でひらかれた第3回のフォークキャンプである。高石を中心とした関西 フォーク勢にまじって、
高田渡、遠藤賢司、南 正人、小室等らが参加。 高田、遠藤の歌に関西勢はショックを受け、小室は西岡たかしに出会ってショックを受ける。
これをきっかけに高田渡も遠藤賢司も高石事務所に所属するようになるのである。
ここに高石事務所の中心となるアーティストがほぼ揃ったわけである。フォークルは当初の予定通り10月に解散。代わってはしだのりひこ率いるシューベルツが結成された。
自分たちのコンサートにたえず事務所のアーティストをゲストに呼び、関西フォークの新しい動きを紹介していったフォークルの功績は大きい。
「イムジン河」「くそくらえ節」など、高石事務所のアーティストのレコードの多くが、政治的な詞が問題とされ、レコ倫(日本レコード 協会のレコード制作基準倫理委員会)の規定に触れてメジャーでは発売中止の憂き目にあっていることから、秦社長が思いついたのは自主制作によるレコードの配布というシステムだった。
そして、69年2月には会員制組織“アングラ・レコード・クラブ”を発足させるのである。

これは、会員になった者にのみ、高石事務所の アーティストのレコードを、隔月で1回につき LP1枚とシングル2枚を通信販売で配布するというものであった。
69年2月末にこの第1回の配布がおこなわれ、以降、4月末、6月末、8月 末、10月末と、第5回まで続いた。
会費は1回につき2千円。会費を完納した会員にはボーナス・レコードが1枚送られるという特典もあった。
会員数は当初千人限定の予定で考えていたが、希望者が多いことから2千人までとした。
ちなみに、第1回配布は、LPが「高田渡/五つの赤い風船」、シングルがミューテーション・ファクトリーの「イムジン河」とトリン・コーン・ソンの「坊や大きくならないで」の2枚というラインナップであった。

1969年1月には、アート音楽出版よりフォークソングの専門誌「うたうたうた・フォークリポート」も創刊され、印刷媒体による関西フォークの広報につとめることになった。

69年3月20日より4月2日まで、高石事務所の アーティストが総出演する“あんぐら音楽祭” のイヴェントが大阪・東京でおこなわれ、どこも多数の観客を動員、関西フォークは空前の盛り上がりをみせる。
ちょうどベトナム反戦運動や大学紛争が激化の一途を辿っていた頃である。
東京では2月から毎週末、新宿 駅西口広場で反戦歌を歌うフォークゲリラが出現、通行人を巻き込んで毎回参加者がふくれあがり、ついに5月には数千人規模の大集会に発展、マスコミでも大きくとりあげられる騒ぎとなる。
歌で世の中が変えられると いう“幻想”がビークに達した時代である。
フォークゲリラのレパートリーの多くは高石事務所のアーティストの作品かその替え歌だった。 しかし、当の高石事務所のアーティストがこれらの集会に参加することは決してなかった。
アングラ・レコード・クラブには、第3回の配布後も入会希望者があとをたたず、制作本数も増える一方だった。こうした要望に応える形で、高石事務所とアート音楽出版は、ここに新会社「URCレコード」を設立、制作レコードの市販に踏みきることにしたのである。
流通は、取次を通さず、全国各地130のレコード店や楽器店と販売契約を結ぶというユニークなもので、そこにレコードだけでなく、アート音楽出版発行の楽譜集や「フォークリポート」 なども置かせてもらうことになった。
69年8月1日には市販での第1回新譜として、 岡林信康『わたしを断罪せよ」と五つの赤い風船の「おとぎばなし」のLP2タイトル、それに 『新宿1969年6月」という17cmコンパクト盤が発売された。また、すでに会員配布されていた LP『高田渡/五つの赤い風船」、
シングル「イムジン河」(ミューテーション・ファクトリー)、 「くそくらえ節」(岡林信康)も同時に市販された。
この8月10月は、“アングラ・レコード・ クラブ”への会員配布と、URCレコードの市販とが並行しておこなわれていたわけである。
会員配布は第5回の10月末をもって打ち切られることになる。
69年8月は、高石事務所にとって大きなイヴェントが相次いだ。労音まわりのあいまをぬって、名古屋五色園フォークキャンプ、 全国高校生フォークソング大会、反戦万国博、 高校生フォークタウン、全日本フォーク・ジャ ンボリー(コラム6)、日比谷野音フォークゲリラ集会、第4回フォークキャンプ。

高石事務所のアーティストは、その超ハード・スケジュールと、70年安保を目前にして運動家として祭りあげられる一方で、フォークゲリラや労音の活動家からは批判にさらされるというプレッシャーに非常な消耗を強いられることになる。
そしてついに限界に達した岡林が9月6日の大阪労音の公演を前に蒸発してしまうのである。
ここにプロテスト・ソングを中心とした 「関西フォーク」は大きな転機を迎えることになる。
69年から70年にかけてURCレコードは、とくにシングルで、関西フォークのいわゆる主流でない、マイナーなアーティストのレコードを いくつか出している。
ザ・ムッシュ、小森豪人、 秘密結社○○教団、ばらあず、やまたのおろち、 アテンションプリーズ、愚、山平和彦、久保田 誠などである。
69年に出た貴重なレコードとしては他に17cmコンパクト盤によるドキュメント69/70 シリーズ〉のNo.1 『新宿1969年6月」と、No.2 『山谷の夏」がある。
これは、新宿フォークゲリラ集会の模様や、山谷の岡林のコンサートの模様を追ったもので、怒号と歓声、アジテーションなども挿入されたドキュメンタリー風のレコードだった。
どちらも、録音と編集を早川義 夫が担当している。その早川がレコーディング・ディレクターだった「第4回フォークキャンプ・コンサート」
という69年12月に発売されたライヴLPのライナーノーツに、詩人の中山容はこう書いた。 “もはや眼は中に向けられる”
69年の12月には、岡林の穴を埋めていた高石もアメリカへ脱出してしまった。これを機に高石事務所も社名を変更、70年1月1日からは 「音楽舎」という名前でスタートすることになる。
蒸発後、ボブ・ディランを聞きまくっていた 岡林は、ロックにとりつかれ、再登場する。新しいアルバムの構想がはじまり、ディレクターとして早川義夫が指名される。
彼は70年2月中旬、近江八幡の岡林の家に一週間ほど泊まりこみ、ディスカッションしたり、岡林の曲づくりの現場にたちあったりした。
その成果が6月に発売されたアルバム『見るまえに跳べ』で、 URCとしては断トツのセールスを記録する。
岡林は4月8日から再びステージにも立つようになり、12日の“ロック反乱祭”でははじめて自分のバンドをバックにして歌った。
『見るまえに跳べ」はURCレコードのURG の番号帯の最初のレコードであった。
旧来の URLの番号帯との違いは、ジャケットが見開きであることで、値段も200円高かった。これ以降、URCではURLとURGという2つの番号 帯でLPが発売されていくことになる。
70年に入ると、岡林に限らず、URCのアーティストの大半からストレートな社会派プロテスト・フォークは影をひそめ、内省的な内容の作品が中心になっていった。
五つの赤い風船は『巫OLK脱出計画」を発表、高石も帰国後はあちらのメジャー・ブルースに傾倒、中川五郎は 歌が生み出せなくなり、高田渡は現代詩をフォ ークにのせる試みなどの模索を始めた。
この年のURCの新人としては、8月の第2回 全日本フォーク・ジャンボリーで 注目された「悩み多き者よ」の斉藤哲夫、岡林 のバックバンドとして名をあげる、はっぴいえんどなどがいた。
はっぴいえんどは、大滝詠一、松本隆、鈴木 茂、細野晴臣の4人組。画期的な、日本語によるロックのバンドで、8月にURCからファースト・アルバム「はっぴいえんど」を発表する。
日本のフォーク界に多大な影響を与えた URCレコードだが、ロック界にも相当な影響を及ぼしている。『ニュー・ミュージック・マガジン」誌が選ぶ69年度の日本のロック・ベ スト・アルバム第1位に岡林信康の「私を断罪せよ」、第3位に早川義夫の「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」が選出されたのだ。
さらに70年度も、第1位にははっぴいえんどの「はっぴいえんど」、第2位に遠藤賢司の『niyago」、第4位に岡林の「見るまえに跳べ」が選ばれた。この事実は、内田裕也をして「そんなにURCのレコードがいいのか、われわれだって一生懸命やってんだ」と憤既させたのである。さらに、ジャックスが高石事務所に所属していたこと、頭脳警察が参加した初のLP『幻野 幻の野は現出したのか」の発売元がURCだったことを考え合わせると、高石事務所=URC は、日本のロック・シーンにもはかりしれない貢献をしているように思えてならない。
この他、同年のURCは、17cmコンパクト盤で日本のフォーク地図〉というシリーズを2 枚発表し、東京・大阪のみならず、福岡、名古屋など、地方のフォークの発掘にもつとめた。
また、70年1月にURZという番号帯から、竹中労のプロデュースで、日本禁歌集〉という シリーズのLPの発売もはじまった。これは全国各地の禁歌、春歌をレコード化したもので、
71年2月に出た第4集まで続いた。だが、最後 の第5集に予定されていた、秋田民謡を集めた 「みちのくの戯れ唄』は発売されずに終わる。
竹中によれば「理由は、制作会社であるURC と、私の意見とが対立したからだ。いま悔いている。録音テープをURCの関係者がもし保存していれば、ぜひ盤にしてほしい。
なぜなら、 それはもう決して作ることのできぬ貴重なレコードだからである。
参加したメンバーの何人もが世を去り、あるいは病床にある」という (「ミュージック・マガジン』84年10月号)。
(* 編注:08年12月20日にオフノートより第1集~ 5集までのすべてがCDで復刻発売)
高石友也は70年に音楽をやめてしまうのだが、これには金銭的、感情的、様々な理由が考えられる。建前的には、あまりにスターシステム的、商業的になりすぎた音楽会に対して、
人々の音楽、フォークの原点に帰ろうというも ので、これはその後、中津川の“フィールド・ フォーク・ムーヴメント”となって結実する。
70年3月31日、シューベルツのベーシスト井 上博が死亡し、シューベルツは6月に解散した。
71年に入っての最大の事件は、季刊となった最初のフォークリポート冬の号が、2月15日にわいせつ容疑で押収されたことであった。これは音楽会の活動に、様々な面で打撃を与えた。編集人の中川五郎は被告となって長期の裁判を闘うことになる。
8月、岐阜・中津川でひらかれた第3回全日本 フォーク・ジャンボリーは空前の2万5千人が 集まった。ここで新しくスターになったのが、加川良であった。
彼はすでに毎日 放送『チャ・チャ・ヤング』のDJで人気者であり、6月にはファースト・アルバム『教訓』も発売していた。
この年制作されたURCのアルバムで代表的 なものと言えば、日本語ロックの金字塔として 今だに評価の高いはっぴいえんどの「風街ろまん」である。
また、エコロジーに目ざめた岡林の『俺らいちぬけた」という名作も出ている。
71年12月に前述の『幻野幻の野は現出したか」という2枚組のLPが、創世記レコードの 制作、URCの販売で発売されるが、URCは70年頃から、自社だけでなく、他のマイナー・レーベルの販売も手がけるようになっていた。
創世記レコードの他、てんぐレコード、天井桟敷レコード、ガーリックレコード、磨レコード、ニトリアレコード、ジ・エンド・ レコードといった妖しくもユニークなレーベル がURCの流通網を使って販売されたのである。

72年にはURCの新人として友部正人、シバ、 金延幸子、野沢享司、ディランIIなどのアルバ ムが出たが、何れも充実した名盤だった。
ただ、この頃になるとメジャー系の各レコード会社も 本格的にフォーク/ロック系レーベルの設立にのり出しはじめていた。
その代表的なものが、キングのベルウッドレコードであった。URC のメイン・アーティストの大半はここか、あるいは他のメジャーへ移ってしまうことになる。
高田渡、はっぴいえんどがキング/ベルウッド、 岡林信康がCBS・ソニー、遠藤賢司がポリドールへと移籍していった。
レコ倫に抵触するような政治的なメッセージの曲も少なくなり、URCは徐々にその存在意 義を失いつつあった。運動としてのフォークは衰退し、秦の意欲もうすれていった。
そして72年11月、秦の意向もあり、音楽舎の高木照元は「如月ミュージック・ファミリー」 というプロダクションを作って独立することになる。
岩井宏、いとうたかお、遠藤賢司、加川 良、斉藤哲夫、高田渡、友部正人、ディランII、 三上寛、武蔵タンポポ団など、音楽舎のほとんどすべてのメンバーがここに移った。
原盤制作も手がけ、CBS・ソニーと提携したので、斉藤哲夫、友部正人、シバなどのアルバムがここから出た。
しかし、わずか1年あまりで如月ミュージック・ファミリーは行きづまり、74年2 月にはその活動を停止してしまう。 73年にURCからリリースされたアルバムは11枚タイトルにのぼったが、音楽会の活動は縮 小体制に入っていた。
フォークリポートも73年春の号をもって休刊。そしてついに74年には音楽舎は事実上その活動を停止することになるのである。
この年に発売されたURCのアルバムは、わずかになぎらけんいち、三上寛各1枚と再編集盤2枚だけであった。
74年12月からURCはその販売を同じ独立レーベルのエレックレコードに委託することになる。これはURCの新譜数があまりに少なくなったため、営業経費上のロスを少なくしようとしたものだった。以降、URC制作のレコードは、エレックが販売をひきうけるようになり、 URCの旧譜・在庫の販売も全てエレックがおこなうこととなった。
その際、『見るまえに跳べ』など、売れ行きのよさそうなものは再プレスされ、レコード番号は変わらなかったが、カヴァーの裏側や扉の内側には、「発売元エレックレコード」と記載され、また、盤のレーベルにも「MADE BY URC RECORDS & ELEC RECORDS」と載った。
75年から76年4月まで、URC制作、エレック 販売という体裁で出た新譜は、古川豪、ひがしのひとし、宮里ひろしなどのアルバム9枚とシングル1枚にのぼった。
しかし、そのエレックレコードも76年6月には倒産の憂き目を見るのである。
そして76年10月から、今度は東宝レコードが販売元を引き受けることになる。その際、 URCの旧譜もレコード番号を変えて再発されることとなり、76年10月25日、「わたしを断罪せよ』『風街ろまん」など5枚が最初にリリースされた。
URC制作の新譜の方は、UX-5000番 台という番号帯で発売されることになり、
76年 11月から77年4月まで、スカイドッグ・ブルー ス・バンド、伴よしかず、中島光一などのアルバムが出た。
ところが、東宝がレコード協会加 盟会社であるため、レコ倫にひっかかって、発売できないものが出てきた。
そこで秦は、京阪神のシンガーや活動家の組識であるUDC(アンダーグランド・ディスク・センター)の協力を得て、UDCというレーベルを新たにつくり、 発禁になったものや商業性に乏しいものなどを 直接販売することにしたのである。77年8月まで、以下のレコードがUDCから出た。
<LP> UDC-2001 「人はみな旅人」 小林隆二郎 UDC-2002「ばとこいあ神戸ライブ』 UDC5001~2『絆」ダンスリルネッサンス合奏団 <シングル>
UDC-0001「さくら/橋のない川 中島光一 UDC-0002「大阪環状線フォーク小 唄/流れ流れて」芦屋小雁。

これらのレコードを、ほとんど秦個人で作ったのである。
音楽舎は、秦から従兄弟の秦慎一郎にひきつがれていた。やがて、東宝レコードも倒産し、80年1月か らは、SMSレコードと契約を結んで、URCの 旧アルバム12枚が再発されることになる。
また、これに先だつ78年12月から、SMSでは秦の協力を得て、音楽舎が保存していた未発表テープを堀りおこし、幻のフォークライブ傑作集〉というシリーズにまとめ、計25タイトルの LPも発表したのであった。
さらに87年、CDの普及により、SMSもURC の旧アルバム15タイトルをCD復刻で発売したのである。ところが、それからわずか2年後の 89年、今度はSFC音楽出版がURC/アート音 楽出版の諸権利を買取り、同年7月から、キテイレコードを発売元に、URCの音源を使用した計50タイトルのCDをリリースしたのであった。
しかし、その余韻も冷めやらぬ92年、SFC音楽出版はURCの権利を手放し、代わってシンコー・ミュージックとフジパシフィック音楽出版が引き継ぎ、95年から東芝EMIが販売を手がけることとなった。
東芝では31タイトルの旧譜がCD化され、さらに98年にはフォークキャンプやフォーク・ジャンボリーなどの未発表音源を中心に発掘・編集した画期的なCD9タイトルもリリースされている。
そして2002年4月にはプライム・ディレクションがURCの販売権を取得、同年8月の「URC アンソロジー』3タイトルを皮切りに、エイベックス・イオ・レーベルで発売されることになる。
まず、<URC復刻シリーズ〉としてアルバム30タイトルを3回に分けてリリース。そして 03年には、あなたのリクエストによる貴重な音源CD化ということで、
Amazon.co.jpとの共同プロジェクト〈URC音源CD化プロジェクト> が発足、レアなアルバムを中心に20タイトルリリースされたのである。
また、未発表テープを 発掘したCDとして「ザ・フォーク・クルセダーズ/フェアウェルコンサート』が03年3月に出ている。
URCは日本のマイナー・レーベルの元祖であり、そのユニークな音楽活動と独自の販売方法は、80年代に一般化するインディーズの原点だったといってもいい。
この会社がその後のフォーク、ロック界、レコード業界に及ぼした影響ははかりしれないものがある。